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2児の親もやっている30代の、浮かんでは消える考え事をふんわり書いています。

異邦人生活の心境と自分のリズムを取り戻したはなし

産休中に、同居人の都合で、縁もゆかりもなく、知り合いもいない土地に引っ越して、育児をはじめてから数年になる。

 

引っ越した当初からそれはもういろんな思いを抱えていて、誰かに話を聞いてほしくて友人に話をきいてもらったりもしたのだけど、とにかく心的負担がすごくて、ポジティブでない方面の感情がどんどん膨らんで上塗りされていくものだから、渦中にいる時はうまく表現できないやら、聞いてもらう人への申し訳なさやらで(どう考えても聞いていて楽しかったり、面白かったりする話ではないことが自分でもわかっていたので。それでも聞いてくれた方々には感謝しかない)、自分でも自分の感情がうまく扱えないし表現できないしで困っていた。

 

今は(別の問題はいろいろあるけど)そちらの感情はおさまってきており、文章にすることで頭の中を整理できそうなタイミングなので、これまたお焚き上げすべく、文字に起こしてみることにした。

 

それと、当時、一番自分の気持ちを理解してほしかった配偶者に対して、一番理解してほしい時に、うまく言葉にできず困ったので、自分と似たような境遇にある配偶者を持つ人(自分の転勤のために、住み慣れた土地を離れ、一時的とはいえ配偶者に育児に専念してもらうことにした既婚者)が、配偶者側の苦悩を理解する何らかの助けになればいいな、という願いも込めている。

もちろん意見には個人差があり、私のような感情を抱く人ばかりではないので、心当たりがある人がもしいたら、必ず配偶者の声に耳を傾けるようにしてほしい。大切にしたい相手だから家族になったのだろうと思うので、自分の仕事も忙しいかもしれないけれど、なるべく、でも誠意をもって、配偶者側の心的負担を取り除く努力をしてあげてほしいと思う。

 

 

 

 

当時、絶望、怒り、悲しみ、閉塞感など、いろいろな激重感情が渦巻いていたのだけど、今思えば、いつも根本にあったのは「なぜ自分だけ、自分の感覚を殺し続けて、一方的に我慢し続けなければならないのだろう」という感情だった。

何にといえば、もう全部に。

 

 

 

 

育児(乳児の世話)では、基本的に子の観察をし子の様子に応じて24時間対応し続けることになる。隣で仕事から帰ってきた配偶者が好きにふるまっている間も、自分は眠かろうが具合が悪かろうが子の世話を優先し続けることになるので、常に自分(だけ)は待ちの姿勢かつ自分の感覚(空腹、眠気、疲労、自由に外出できないことへのストレスetc)にふたをして対応し続けなければならない、というしんどさを抱えていた。

 

ただ、出産した以上、育児は引っ越しがあってもなくても対応しなくてはならないことであり、昼夜問わずの育児をすることでしかわからない発見や楽しいこともたくさんあるので、「今日、寝返りがうてるようになったよ」とか、子どもの日々の成長話や自分が気づいたことを誰かと共有できて、「すごいじゃん」とか「それって面白いねー」とか、自分の感情や子の世話に関して大人にリアクションしてもらえる機会が持てれば、孤独に育児をする自分自身も結果的に肯定してもらえるので、多少しんどくなっても、なんとか乗り越えられると実体験から思った。

 

(逆に誰にも話を聞いてもらえなかったり、こちら側の事情を知りもしない相手に育児のやり方を根拠なく一方的に否定されたりなどすると、私に世話をされる当事者=言葉が話せない乳児からの評価が当たり前だけどすぐには得られないために、私はいったい何のためにこんなぎりぎりの状態で夜通し育児してるんだ…?と意味を見失ってしまう場合がある。)

 

ただこちらに関しては、仮に身近に話を聞いてもらえる人がいなかったとしても、妊娠中からお世話になる市役所・区役所の窓口とか児童館とかに行けば、職員も親身になって話を聞いてくれるし(たまにひどい対応をされたという話も見かけたりするけど、その場合もあらためて別の人に話せば誠意をもって対応してくれると思うから、とにかくあきらめないでほしいと思う)、育児に関するプロに直接相談できるようにもしてくれるので、こちら側の悩みなら、引っ越し先でも割と解決策が見つかりそうとは思えた。

 

 

しかし、引っ越しによって激変した生活環境とそれへの違和感については、身近に話せる相手も理解してもらえそうな人もいなかった。というのも、それを話すこと自体、その地域で暮らす人が持つ、地元への愛とか尊敬とか好きの気持ちとか、そういう幸せな気持ちを踏みにじることになってしまう、と思っているから。

 

 

 

引っ越した地域は生活するのには困らないコンパクトシティな地方都市なので、生まれ育った場所から一度も外に出ずに暮らしてきた人や、別の地域から好んでこの地域に移住してきた人が多い土地だった。

それもあって、仕事をしていない状態で育児中に新たに出会うチャンスのある人というのは、地域に根差した暮らしがしたい人/できる人が圧倒的に多く、だから自分が暮らす地域や暮らし方そのものへの違和感・不満を持たない、むしろそれが好ましく、快適に思ってるんだろうなという人が大半だった。それはとてもしあわせな生き方だと思うし、自分もそういう場所が見つかったらいいのかもしれないな、とも思う。

(以前友人に言われてそうだなと思ったのだけど、どうも私はどこにいてもなんとなく浮いてしまう性質があるので、どういう場所なら地に足をつけられる(つけたいと思う)のか、大人になった今も、いまだに具体的なイメージがわかないし、無理にそうする必要もないと思っている。)

 

 

しかし、別の地域から特に望んだわけではない地域に子連れで引っ越した側の理屈でいえば、目に映るもの聞くものすべてが今まで経験してきたことと違い、求められる対応も違うので、従来の住人にとっては良いところも含めて、周辺環境すべてに対して慣れないことから来る違和感は、どうしてもなかったことにはできなかった。

そういう、なんかよくわからないけどしっくりこないなという感覚を抱えたまま、しかし現実問題として生活は回していかないといけないので、ただ生活する(だけの)ために、自分の感覚をひたすら自分が違和感を持つ文化の側に摺り寄せていくという、とにかく辛抱と忍耐のいる感覚調整をし続ける日々を送ることになった。

 

 

 

具体的にあげると、まず、言葉。

東日本から関西に引っ越したので、そもそも日常生活で使う言葉、聞く言葉が標準語ではなくすべて関西弁というのが衝撃で、これだけでも慣れるのにとても時間がかかった。

同じ日本なのに、自分が話せない言葉が日常的に使われる空間に常に身を置かなければならない違和感と緊張感。(ちなみに関西弁を話せない人が関西弁を話そうとして変なイントネーションになったりすると、こちらの意図に関係なく馬鹿にされているととらえられることが多くて、なんだかものすごく空気が悪くなることを関西に来てからはじめて知った。それがわかってから、しばらくの間は不用意に発言しないよう、息をひそめていた。基本的に憎まれたくないし、不和も起こしたくないので)

 

 

仕事をしていたなら、ビジネスの場で標準語でのコミュニケーションに触れる機会もあるのだろうけど、買い物やら子の散歩やら、いわゆる日常生活の場にしか自分の居場所がないので、とにかく聞きなれない言葉にさらされ続ける日々。テレビもラジオも、NHKですらライトな情報番組にはすべて関西弁が混じるので、途中から見聞きする気力をなくしてしまった。

 

関西弁が一般的な地域の理屈でいえば、関西弁が話せない私の方がイレギュラーでマイナーな存在であり、はやく慣れたらいいし、関西弁以外の言葉であっても別に好きに話したらいいじゃん、ということなんだろうと思う。

 

実際に住んでみて、関西は日常生活における会話でのコミュニケーションをより重視する文化があると感じたし(同居人が言っていたけど、街中でチャリに乗ったおっちゃん同士が立ち話してるのを見ると関西に来たなと思うらしい。言われてみれば確かに、男性同士が道端で挨拶するのを見ることはあっても、そこそこの時間をかけて雑談する光景は、関西以外ではあんまり見かけない気がする)、赤ちゃんや子どもの存在に肯定的な考え方を持つ人が多く、多少泣いたり騒いだりしてもあたたかく見守ってくれる文化が自然と根付いている感じもした。(東日本では割と興味関心がない割合が高かった中高生ですら、関西では男女問わず赤ちゃんを見てにこにこする人が多いので、子連れの身からするととてもありがたいしものすごくほっとすると同時に、どうやったらそのように子が育つのか、ちょっと不思議にも思った。子ども好きの割合が高い地域なのかな。)

だから子連れの私が会話するという行為自体に関しては、否定的な空気は周囲にはまったくない。

 

 

しかし私の立場からすると、関西弁の話者同士で話すときに流れる独特の打ち解けた感じが自分にはいっさい出せないしもたらされないしで、誰も悪くないのだけど、関西弁でのコミュニケーションというだけでどうしても自分の中のよそ者感が拭えず、常に孤立している感覚があった。

しまいには、私は私の扱ってきた言葉(標準語)でのコミュニケーションが一方的に禁止されているようにも思えてきてしまい、なんだか自分の言葉=思考自体を否定されているような気持ちになることもあった。あくまで自分の中の感覚の話。

 

 

私も生まれ故郷ではお国言葉を話すし、好きな方言もある。地域固有の言葉遣いが存在すること自体は良いことだと思っているので、関西弁が悪いと言いたいわけではなく、関西において関西弁以外でコミュニケーションしたいと思ったときにそういった手段が自由にとれないというのがつらかったなあ、という話。

これまで住んでいた地域の場合、それぞれのお国言葉はあっても、公共の場というか、スーパーなどの生活の場でつかわれるのはたいてい標準語で(たまに地方独特の方言が混じるくらい)、それさえある程度身につけていれば、コミュニケーションに支障はなく言葉遣いに対する切迫感や孤独感もなかったのだけど、関西の場合は標準語が関西弁で、すぐには獲得できないイントネーションを持つ話し方なので、大人になってから移住することになった人は一体どうしてるんだ…?とも思った。

 

そういえば一度だけ、児童館で、私とまったく同じ境遇にあるお母さんに出会ったことがあった。その人も見るからにしんどそうで、1人でお子さんの世話に追われており、たぶん私と同じ苦しさがあるんだろうなとは思ったけれど、当時は私も子の世話と自分のことで手一杯だったので、交流する余裕が一切なく、そのまま特に何もせず別れたことがあった。あのお母さん元気だろうか。元気だといいな。

 

 

 

次に、これまで暮らしてきた地域との気候の違い。

住んでいる地域はこれまでの場所に比べて、日差しが強いというか日が高く、その分夕暮れもきれいだけど西日がきつい。昼間は冬でもあたたかい日が多いけど、だからなのか朝夜の冷え込みが厳しい。許されるなら日中と朝夜とで服を着替えたいレベル。

また、湿気も極端で、梅雨から夏にかけては湿度80%、冬は逆に30%と、やっぱり差が激しいので、除湿器をしまうタイミングで加湿器を出さないと、乾燥で夜眠れない気候。

 

これまで住んでいたのはどちらかというと北側の海沿いで、日中の気温差も、湿度の差もそこまで大きくなかった。冬の場合ならユニクロヒートテックやタイツがあればある程度自由に洋服が選べたし、日中は冷暖房のある室内で仕事をしていたから、洋服で不便を感じたことはなかった。

しかしこちらでは、朝夜用に着こむと日中暑すぎて汗をかき、逆に日中用に薄手装備でいくと自分が寒がりなこともあり、朝夜の冷えに耐え切れず風邪をひく。生活していくためにはこれまで経験したことのない洋服選びのスキルを身につけなくてはならなくなり、これいいなあと思うデザインの服はこちらの気候に合わないのでほぼ着られなくなった。実際、周辺の店舗で扱う服も好みのものが少ないので、ウィンドウショッピングもいまいちはかどらない。

でもこれは、お店やこの地域のせいではない。私の好きなタイプの服がこの地域の気候にあわないという、ひとえに私側の相性の悪さのせいだ。

 

 

育児をしながら生活する(だけ)なら、汚れても傷ついてもかまわない、ちょっとした山登り用の服装(速乾&保温性を持つアンダーウェアやレギンス、雨にぬれてもすぐ乾くハット、しゃかしゃか系のアウター、降りはじめると20分近くやまない突然のにわか雨でも浸水せず坂道も歩きやすい防水仕様の靴)があればいい。

だから普段の恰好をそういう方向性にあわせるのが一番効率的だというのは頭ではわかっているのだけど、そもそもアウトドア自体にも興味がなくそちら系のファッションを着たいと思うタイミングもないまま生きてきたので、この地域で生活をするためだけに、自分の好きなものを一方的にあきらめて、特に興味が持てない服をなぜあらためて買って常時身につけないといけないのか、自分で自分を納得させる理由がなく、そこでもなんだかもやもやしていた。

(今は、そのあたりはざっくりスルーし、ある程度、体調を崩さない程度に着たい服を着るようにしている。多少不便ではあるのだけど、快適な生活のためだけに常に自分の感性を全捨てする人生はやっぱり違うな、と思ったので。)

 

 

他にも住んでいた地域なら買えた品の取扱いがなくて買えない、触れたい系統の文化が近くにない(ライブやら美術展やら、見たいものはことごとく東日本開催のものばかり)など、好きなものとの距離は遠くなるばかりで、自分がやりたいことほどできない日々となり、周辺でそういうことができる場所をゼロから探そうにも寝不足と体力不足でそれどころではなく(1分でも多く寝たい状況)、とにかく自分の感覚を後回しにして、目の前の生活や周囲の色にあわせるばかりの生活になってしまった。

(どうしてもしんどいときは、子連れで東京に行くか、実家で過ごすようにしていた。過ごす地域が変わるだけでものすごく気分転換できたので、これ以上ここで生活できないと思ったら、いっそ子連れでもいいからちょっと長めの外出か、旅行するのがおすすめ。ある程度年齢が上がれば、他県居住者でも預けられる託児施設のある地域もある。)

 

 

 

そんな中で、仕事とはいえ大人との交流時間が持てて、ある程度自分の裁量(感覚)で物事をあれこれできる時間を持つことができる同居人から「俺のためにもなんかしてくれない?」というようなアクションを取られた日には、

 

「こちらは好きに言葉を発することも装うこともできず、自分の感覚を押し殺しながらやりたいことほど我慢して、ひたすら周辺環境に自分の感覚を合わせ続けるというすさまじい心的調整を常に行っている(そしてそういう状況を作り出した原因の一端は同居人にもある)というのに、その上、そちらにまでさらにチャンネルをあわせて何か奉仕しろと?己に人の心はないのか?」

 

という、同居している私に対する状況把握力と想像力のなさに対する怒りと失望で、言葉を失ってしまう経験をした。あまりの感情に逆に脱力してしまったので、「自分の世話くらい自分でして」と、それはもう猛烈に醒めた気分で、なんとか言葉を返した記憶がある。

いま思うと同居人は関西にゆかりのある人なので、まったくゆかりのない私の感情を想像しろという方が無茶だっただろうなと思っている。でもその当時、私がここまでの思いを言語化して伝えることは体力的にも精神的にも難しかったので、まあもう仕方なかったな、とも思っている。(だからといって私の感情をないがしろにされたという感覚は消しきれないし、当時のすべてを許せるほど私は大人でもないので、いすれなにがしかの機会に、この貸しはまとめて返してもらおうとは思っているが。お互い、持ちつ持たれつの人生のはずなので。)

 

 

 

今はそれから数年経ち、関西弁にも少しだけ慣れたこと(話すのは一生無理だと思うけど)、乳児期が終わり寝不足が解消され、日中の子の預け先も見つかり自分の時間をある程度持てるようになったので、状況が改善されて心身ともにかなり回復した。子が成長した分、要求も多くなったので毎日いろいろとぎりぎりではあるけど、自分のリズムを保てる時間が取れるようになったので、割と前向きに楽しく生きている。自分を守るためには、育児とは別に自分の時間を持つことがとても大事だということを身をもって知った。

 

以上の経験から、自分の感覚がわからなくなったり、ここにいたらだめだなと感じたりしたら、ためらわず、一時的でもいいので別の場所に避難した方がいいと、今も異邦人な私は思う。自分を大事にできない状況では自分以外の他人との共同生活などうまくいくはずがない。根本的な解決にはならないと思われるかもしれないけど、それでも避難して、自分のリズムを取り戻すことを優先した方がいい。何せ先は長いので、ちょっとくらい休んでも罰は当たらないだろうと信じている。

すぐそこの蟻地獄

やっと心に抱えた闇が薄まってきたので、残りの心情をお焚き上げすべく、少し前のことだけど、とある行事の役員になったときの話を書く。

 

一言で言うと、丸投げされたブラック業務を必死でこなす中、さほど気を使わず投げた言葉で人間関係が炎上してしまい、もともと消極的だった子育てにおける新規の友人作りを、本格的にあきらめることになった、という話である。

がんばったらそういう友人作れるのかな、という淡い期待にばっさり踏ん切りをつけられたという意味ではよかったのかもしれない。いやまあ本当はいい感じの距離感が保てるひとが欲しかったんだけどね。いるといいよ、という話はよく聞くし。

しかし覆水盆に返らず、現状を踏まえるともはや望むべくもなく、この土地で、見ず知らずの親御さんと一から関係を構築する自信がすっかりなくなったので、今はもうすっぱりあきらめている。あいさつがかわせたらそれでいいや、くらいの気持ち。

 

 

担当したのはいわゆる夏祭りみたいな行事の企画。

諸事情で何回か中断されていたが、もともと毎年開催されていて、模擬店やらバザーやら催し物やらを出店する形式。すべてチケット制=来場者からお金をいただいて開催する。

役員が数人選ばれて企画内容を決め、当日は会場スタッフ係と一緒に運営を行う、という流れだった。

ちなみに私の役職は会計。くじ引きで決まった。

 

もともと学生時代、かなり真面目にイベント企画するサークルに入っていて、それこそ企画書作りと議論、当日運営と金銭管理、引継ぎ書作成と後任者へのアドバイザー的なことを一通りやっていた経験がある。

だからイベント企画自体は好きだし、この件も最初は割と楽しみにしていて、「当時やってたことも生かせそうだし、そもそも会計業務だけならなんとかなるでしょ~」と、楽観的に考えていた。

 

 

が、しかし。

蓋を開けてみたら、ちょっと言葉が出なくなるくらいの業務量と睡眠時間を削りまくるスケジュールで、文字通り、忙殺された。正直、仕事より大変だった。順番に書く。

 

 

その1 未就学児の育児をしながらゼロから企画書作り&昼夜問わずLINEでやり取り

毎年開催されていたと聞いていたので、ならば毎年何をしていたのか、企画内容の検討資料(○○をやろうという意見に対し、××という事情から実施をあきらめましたとか、そういう経緯がわかる資料)や、運営資料(当日のレイアウト、配置スタッフ数やシフト表、当日の参加人数など)がどこかに丸々残っているに違いない、それをアレンジして使えばいいじゃん、と思っていたのだけど、これがまったく残っていなかった。

 

どうやら毎年必ず、過去の企画経験者が関わるようになっていたので、ノウハウは口伝だったらしい。吟遊詩人的なスタイル。

過去は過去でいろんな事情があったようなので、やむなく保管できなかったんだろうなあとも感じるものの、神話とか唄とか1回きりの行事とかならいいと思うけど、毎年やる行事の段取り関係は、資料を残しておかないと後任の人がいろいろな意味で死ぬ。

 

徹底的に調べたら、会計資料の一部としてかろうじて残っている手書き資料があったので、のちのち参考にすることはできたけど、企画書を出す最初のタイミングでは見つからず、そのため企画を考えるにあたっての会場設営ルールとかの前提条件がまったくわからなかった。

 

ということで、ゼロから企画内容、運営ルールやら人員配置やら導線やら全部考えて会議に提出、「そこはガムテ貼れないからその催し物自体無理かも」というのを会議当日にはじめて知らされて、家族が寝てから深夜2時まで練ったアイディアが一瞬で白紙になる、というようなことを経験した。

あっはっは。もはや笑い飛ばすしかない。

 

ちなみに他の役員はパソコンを使ったことがなく、イベント企画も今回が初めてっぽい雰囲気があり、「何から手をつけたらいいのかわからない」状態(でも締め切りが毎回タイト)なので、私が原案を作りLINEにひたすら打ち込んでは相手から返信をもらい、手を付けられそうな簡単な作業から少しずつ仕事を割り振っていき企画業務に慣れてもらう、というのを、未就学児を自宅保育しながら数ヶ月やっていた。

 

対面だと私が子連れでしか会えないので、まともに話し合いができないから、LINEしか共有手段がなかった。

ゼロから企画書を作り、認識を共有するためのやりとりなので、どうしても長文になり、私も他の役員も、朝から晩までLINEやり取りすることになった。

 

知ってた?文字数多い投稿は、LINEだと別画面表示じゃないと全文読めなくなるんだよ!

私はこの業務ではじめて知りました!

たぶん知らない方が幸せな世界!

 

ちなみに、時流に沿う形で全体のスタッフ数が目に見えて減っているため、過去のやり方をそのまま踏襲すると人手の観点でパンクすると当初から思っていた。

 

実際に、当時のスタッフ予定者数と当日の役割分担から簡単な人員配置案をつくったらあきらかに人手が足りなかったので、案を見せて「私たちの企画、すでに人不足なんですけど、みなさんシフトどうされる感じですか?」と他の役員に聞いたりもしたけど、なんかいまいち伝わらなかった。

 

なんで企画の具体案を提案する前からスタッフ数の話を?それまだ先の話では?みたいな空気。

だから回答もふわふわで、最終的に誰かヘルプに回すようにするから大丈夫、とか、そんな励ましがきて終わりという感じだった。

 

そんな感じでいまいち周囲の人に危機感が伝わらなかったものの、これは当初から人手いらずの企画を入れないと詰むと思ったので、そういう企画を新規でつくって提案して既存の企画数を減らしたり、シフト表の枠組みを考えたりもした。(後々、危惧していた通りスタッフ数が不足したので、空気に流されずに、少しでもスタッフ数を減らす提案をしておいてよかったな、とは思った。)

 

…というような仕事を、保育園に子を預けずにやっていた。日中は家に子がいて作業は無理なので、家事などもろもろ終わってからの深夜にしか作業できない日々を送ることになり、保育園システムのありがたさを痛感した。夜の睡眠時間を削ってしか作業できないのは本当につらい。

 

 

その2 4企画の会計を1人で回す過酷さ

本業は会計なので、「過去の参加者は何人くらいで、今年の参加者はどのくらいの見込みなんですか?それにより予算も支出も変わるので教えて」と会議で聞いてみたら、誰も知らなかった。そのかわり、赤字にならないチケット代の案を複数、1か月以内に会議に出して、みたいな話になった。

 

 

…なるほどどういうこと?(黒目)

 

 

補足すると、私が担当した年から行事の主催者が変更になったこと、収支関係の書類は企画別での管理になっていて、企画ごとに赤字か黒字か、何人参加したかを把握する方式だったために、全体で何人来たのか、収支はどうだったのかみたいなことはあまり重視されていなかった模様。

(一応平成に入ってからの資料だったんだけど、全部手書きだったから、なんかもういろいろ大変だったんだろうな、というのはうすうす感じた。)

結果、私が担当した年は、行事自体への参加の経験はあっても、人数とか金額とかの数字に関しては、みんなすぐにはわからないし見込み数もない、という状態だった。

 

…とりあえず現状はわかった。

わかったのだけど、参加者数の見込みをいい加減にやるとその時点で確実に赤字になってしまうので、なるべく実態に近い来場者数の見込みが、どう考えても必要。

 

結局、過去の会計資料を数年分見て、企画別にチケット売り上げ枚数を確認、Excelに転記して平均値を出し、今回の仕入れ予定の品目・単価・仕入れ数とにらめっこしつつ、おつりもなるべく出ない金額で、みたいなバランスを探り探りして、なんとなくいい感じにおさまる案をExcel使って3案、4企画分出した。

 

ちなみに1企画あたりの来場者平均が、だいたい300~400人。

この行事、すごく親しまれてるんだなあと思ったけど、未就学児を自宅保育してる=作業できるのが深夜しかない人がやる仕事量じゃない、と思った。

というか、Excel使えない人がやることになってたら、誰がどうフォローするつもりだったんだろう。手作業集計…?この作業量を…???

 

結局、仕入れ先の検討(過去、どこに発注したかの記録がなかったので一から探した)、発注品目と発注数の確定(不良品率を見越して余分に発注数を算出する、とかいうややこしい作業込み)、行事終了後の不良品数の実数確認など、はじめから終わりまで締め切りがことごとくタイトだったために、最終的にすべて1人で真夜中に計算・発注・確認することになり、なんというか緊張と消耗がすごかった。

 

家族が寝てから、企画書作って会計作業やって、終わったー!と時計を見れば午前3時。結果をLINEで連絡、2時間仮眠したら子の朝の支度&会議出席、という生活リズム。

あまりにも作業が終わらないので、企画が動き出してから終わるまで、1ヶ月に平均5日は徹夜していた。

 

うーん、企画って、こんなに命がけでやるものだったっけ?と何度か思ったけど、周囲に手が空いている人は皆無、その割に追加作業だけがどんどん積みあがっていくというあまりの逆境っぷりに、もちろん心は荒んでいったのだけど、途中から逆に面白くもなってきて、「毒を食らわば皿まで」「今に見てろ未来…!」と、よくわからないやる気、気力、仮眠、ブラックコーヒーでなんとか作業を進めた。

仕事なので、ひたすら手を動かし続ければいつかは終わるという真理。頼れるものがない中、未来の自分を支えてくれるのは、いつだって過去と今の自分の頑張りだけである。

 

 

 

その3 最後の最後にひとり炎上

しかしそんな無茶が長く続くはずもなく、企画が固まったくらいのタイミングで業務量的に私がパンク。そのころには何をどうするか、かなり具体的に整理できていたため、仕切り全般を別の方にお願いし、私は本業の会計にしぼって対応する体制に変更してもらったりして、なんだかんだ迎えた行事当日。

 

全方面に向けて最後までくまなく準備したのもあり、結果として、行事自体はとてもうまくいった。

自分で言うのもなんだけど(しかし自分しか言える人がいないので厚顔無恥を承知で書く)、数人で企画案をつくったとは思えない出来だった。

あきらめない気持ち、大事。

参加者も役員も当日スタッフもみんな楽しそうだったし、本業の会計もミスなくよい感じの黒字で終わったしで、ああ本当によかったな、と思った。

 

 

 

 

…私の人間関係以外は(黒目)

 

 

 

 

端的に言うと、寝不足状態で返した私の言葉が一部で炎上してしまい、いろんな人に間に入ってもらったものの、収拾がつかなくなってしまったのだった。

見る人が見れば気になるけど、気にならない人は気にならない、そんな感じの微妙な言葉だった。弁解して謝罪されたら、仕方ないから許すよ、と言ってくれる人の方が多いと思うのだけど、いろんな事情で、今回はそういうことにならなかった。

 

私には私の言い分があり、なんとなく察してくれる関係者もいたけど、みんな遠巻きに見ていて、表立って味方になってくれた人はいなかった。

(住んでいる土地柄がとても影響している気がするけど、あらゆる方面に角が立たないよう、誰にも見えないところからフォローしてくれる人はいた。

それだけでもありがたいし、ありがたいと思わないといけない話なんだろうな、と大人の私は思うけど、別の私は、新参者を受け入れることよりも内輪での保身が大事なんだなとどうしても感じてしまって、そういう生き方もありだとは思うけど、自分もそうしろと言われると、つい醒めた目で見てしまうところがある。

人生観というか、生き方の違いで、私のようなイレギュラーなひとを認めてしまうとそれだけで生きづらくなってしまうコミュニティなんだろう、とも感じた。そういう場所に身を置きたいかどうかは、人によると思う。)

 

個人的な感情は置いておくとしても、結果としていろんな人に心配や迷惑をかけたのは事実なので、その点は反省していて、どうしたらよかったのかな、というのを自分なりに考えてはみたのだけど、関係の方には本当に申し訳ないのだけど、防ぎようがなかったな、という結論に達した。

きっと、私じゃなくて別の人が同じ言葉を発信していたとしたら、炎上していなかったんだろうな、というのも想像できてしまって、ああそういうことならもういろいろと関わるのは無理だな、と思ってしまった。

 

そもそも、数か月にわたり未就学児の育児しながら寝不足状態で必死に企画業務をやってる極限の心身状態の人に対して、コミュニケーション上の失敗を一切許さない、という相手と、そちらを優先して擁護する集団の中では、たとえ自分が万全の状態だったとしても、私の性格上、所属することを許されても息苦しくて生きていけないな、と思ってしまった。

 

 

 

というわけで、それ以降、行事とも、関係者とも、距離を置くことにした。

あいさつはするけど、自分から話しかけにいくことはないし、向こうも関わらない。この件とつながりうる人とのSNSも一律やめた。どこで何に飛び火するかわからないから。

寂しい気持ちもあるけれど、海水魚が淡水で生活できないように、いわゆる住む世界が違う上、お互いにお互いの存在すら許容できない大人の関係というのは確かに存在していて、そうなってしまったら、もう関わりを断つしか方法がない。

 

この行事は今後も続く見込みで、役員になることはなくても、当日スタッフとして仕事をお願いされる可能性はあるらしい。とすれば、今後の行事の運営にいろいろと支障が出そうと思ったので、終了後、主催者には正直にこのトラブルについて話した。

主催者からは超高負荷作業に関しての謝罪と、これ以降はこういうトラブルがないようなやり方にする、元気だしてね、というようなことを言われた。主催者側が中立の立場でいてくれたことはちょっとだけ救いかもしれない。

 

 

というわけで、解決の目途は一向にたたず、実際、傷も完全には癒えてはいないのだけど、文章にしたらだいぶ自分の考えが整理できたので、これでいったんおしまいにする。

 

ちなみに私が提案した人手いらずの企画案は、その後も採用されているよう。

少なくともこの行事に関わる未来の人たちの負担を減らす仕事はできたみたいだから、それは素直にうれしいし、あの時全力でやってよかったな、と、ひとり思っている。

自由で勝手で素直な、愛しいひとたちへ

地元にいた頃の話。

常々、「もう好きにしてほしい、私に構わずおのおの勝手に、自分の実力で生きてくれよ」と、ずっと思っていた。


子供が少ない地域で、経済の輪も地元の商店街で閉じていたから、悪いことは当然、良いことをした人すらも、なんでもかんでも「噂」にして、他人を消費できる娯楽とみなして笑いあう周囲の人たちの価値観が許せなかったし、わからなかった。(月日がたった今も、根本的にはわからないし、わかりたくないし、わかりあえないだろうなと思う。)


何かに一方的にすがる(すがりたがる)人も、よくわからなかった。


どちらも、噂やすがられる側の事情をあえて無視して、自分の痛みやつらさを和らげるために利用しているとしか思えなかった。そういった負の感情を和らげるためにできることは、他人を利用することではなく、自分への投資なのでは?と、ずっと思っていた。

少なくとも私は、そういうものになりたくないと思っていた。



そういうものから身を遠ざけて生きてきた結果、30代半ばの今の私と付き合いを続けてくれている人たちは、全員が全員、自由に勝手にたくましく生きる人ばかりだ。

甘えてくるときには頻繁に連絡がくるくせに、割と人生における大事な連絡のときは後追いで知ることが多く、報告がないのはたまにさびしいなと思うこともあるけれど、じゃあお前は連絡してるのか?と我が身を振り返ると、最近はしていないから、因果応報だなと思うし、それがうれしくもある。


今日も、自由で勝手で素直で素敵なひとたちに、良い一日が訪れますように。